よくあるご質問

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理念や指導方針

北星余市の教育とはなにか

本校教育の始まり

本校の教育の中心は、「子供達を集団の中で育てる」という点にあります。これは本校の教育の礎を築いた、第3代校長の馬場達氏の教育方針でした。彼は北星学園男子高校(現北星学園大学附属高校)の教師でしたが、北星学園が余市町の要請に応え、余市高を開校する時の実質的な教育に対する責任者として赴任してきました。 当時の校長は、男子高の校長と兼務でした。

実質的な教頭であった彼は、開校当初より「クラス集団づくり」を基本とした「学校集団づくり」を考えていました。当初の教師集団は、教育に情熱を傾けたいと考えている教師たちでした。そうであるが故に、自分の教育に理想を持っている教師が多かったのです。その為ひとつの方針のもとに教育を行うというのではなく、一人一人の教師が自分の考えでばらばらに行うという状態でした。更に、多分にその教育理念は観念的なものでした。従って失敗を繰り返しながらも、徐々に馬場氏の考えが理解されるようになっていきました。その間いろいろな実践の総括や研究が日常的な教員会議や、泊まりがけの教師研修会でなされていました。これは現在でも、夏休みと冬休みに2日間にわたって行われています。

しかし、教師集団がその方向でまとまるためには数年を要しました。勿論その為には、生活指導に於ける「クラス集団づくり」の実践の成功が必要でした。

その実践を成し遂げたのは、当時本校に赴任したての近藤典彦氏でした。本校の教師集団は、その後、実践から学び理論化し「クラス集団づくり」の教育を豊かにして現在に至っています。

また当時から、学校の「二面性」として、生徒の非行に処分権のある管理的側面と、生徒を許容し保護する側面が一見矛盾した形で存在するという認識を持っていました。学校体制として、前者を担っているのが「生活指導部」であり、後者を担っているのが「担任」であるという認識を持っていました。その後、担任そのものの中に教師の二面性が、内在するという事が認識されていきました。担任は時には鋭く生徒の問題性を追及し、時には優しく許容しほめたり励ましたりするのです。

従って、学校の中では担任が一番重要な部署であり、分掌としては「生活指導部」が重要な分掌だと云う認識でしたので、学年主任は担任の一人が担うという体制でした。そして、全校集団づくりの要として「生徒会顧問」を位置づけていました。

また、学校教育の中には、教科指導と生活指導の二つの分野がある、という認識も持っていました。

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編入制度導入の経過

本校は、後志の過疎化に伴って生徒減が続いていて、生徒募集の範囲を札幌まで広げていたが、それも漸減していた。その時、たまたま北海道に来た朝日新聞の山岸記者が本校をおとずれ、本校の教育を評価して、全国版に本校を紹介したのがきっかけでした。それ以前から、前述の近藤先生の紹介で毎年のように、数人の東京の高校中退生が本校に転入して立派に卒業していましたが、新聞記事をきっかけに多くの生徒が来るようになりました。

日本の新制高校は、終戦後、現在の大学の様に単位制を基本として、自ら必修単位と選択単位を選んで必要単位数を習得し卒業するという制度を考えていました。しかし、当時は現実には、教員も足りないし教室も足りなく、選択教科を取り入れる余裕がなく、事実上の学年制を取り入れざるを得なかったのです。従って、名目上は単位制という制度は残っていたのです。しかし、「学年制」という制度は、15歳から18歳の青年たちに、行事等を通じて「クラス集団」という集団生活の中で社会性を育むことが出来るという、日本の学校教育の中で、重要な副産物を生みだしたのです。多くの新制高校は、無意識のうちに教科指導とは別に、行事を通じてのHR指導の中でクラス集団指導を行っていた訳です。そしてそれが一定の成果を生んでいたのです。その後「集団づくり」の実践が全国で展開されていったのです。

しかし一方、多くの学校は学年制の為、途中退学者は、退学した直前の学年で習得していた単位を有効に使う事が出来ずにいたのです。

本校ではその事を理解していたので、その生徒を、途中転校と区別して、中退生に対しては、「編入生」として受け入れる制度を作ったのです。

この様な制度を、「編入制度」と名付けて実際に受け入れた高校は、日本の中では本校が初めてであると思います。本校は、学年制の長所を受け継ぎながら、編入制度を導入してきたのです。

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本校教育の本質

本校の教育は、子供達は、集団の中でこそ成長する、更に、社会の中で生きていく力は集団の中で育つ、という人間観と教育観に基づいています。本校ではそれを、学校行事を通じて「クラス集団づくり」として指導するという構造になっています。

また現在では、その行事を生徒会が主催して行なう事によって、「全校集団づくり」へと発展させていくわけです。また、「クラス集団づくり」で前提となるのが、「クラス民主主義」です。その為にもクラスの中で暴力支配や、いじめなどがあっては「クラス集団づくり」は出来ないのです。

従って本校では、必然的に暴力支配やいじめに対する指導が、避けて通ることのできない重要なものとして考えています。我々は、常にいじめはもちろん、からかいや使い走り等にもアンテナを高くして、暴力支配的傾向に対処しているのです。

しかしその指導に関しては、必ずしも最初から確立していたものではありません。

一時期、その様な所謂「ヤンチャ」な生徒の行動を結果的に容認してしまう指導がありました。しかし、そのような生徒の言動に対しては、担任が前面に立って教師一丸となって対決し、暴力的な言動を許さない姿勢を鮮明にすることが重要です。

勿論、なぜその様な言動がどの様な意味で問題で、本来の民主的人間関係からどうしなければならないかを、深く具体的に語れる力を要求されます。

本校では、教師一人一人が上記のような、「許さない姿勢」や、「語れる力」という教育力が、他の学校と比べて特に秀でているわけではありません。しかし、それを学ぶ意欲と、何よりも「教師集団としての教育力」には素晴らしいものがあります。

即ち、学校の教育力とは、「教師集団の教育力」と考えています。その為には、「教師集団づくり」が前提になってきます。教師一人一人がお互いの教育に無関心であっては、上記の教育はできません。本校では、教師集団の相互批判と自己批判の中から、一致した対応の重要性を認識し、当初から「教師集団づくり」を意識していました。

また、学校には前述のように、2つの側面があると考えています。1つは、管理的側面で、「許さない姿勢」を体現しているのが生活指導部です。もう1つは、彼らの成育歴を理解し彼らを受け入れながら、その間違いを深い所で理解させるよう「語れる力」を持って日常的に指導する担任です。

この様に本校では、不登校生や中退生を積極的に受け入れるようになる以前から、生活指導の中心に「集団づくり」の教育を置いていたのです。その様な教育はまさに「人間関係づくり」ともいえるものです。

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不登校・中退生の現状

また、不登校になったり、高校を中退したりするのは、色々な理由があります。不登校になった原因は、いじめやちょっとした友人関係の不和の場合もあるでしょう。学校の側に問題があったかもしれません。また家庭内の問題かもしれません。また本人自身の中にその原因が内在している場合があるかもしれません。いずれにしても、多くの場合、不登校の子供達は、もう他人とはかかわり合いたくないと考えている生徒も含めて、深い所では、友人がほしい、話し相手がほしい、疲れない人間関係がほしいと考えています。しかしそれが出来ないで悩んでいるのです。それは大きく考えると、彼らは人間関係づくりが苦手であったり、どのようにして関係を作ればいいのかわからなかったり、失敗したり裏切られたりして、自信をなくしてしまった結果そうなってしまうのだと考えています。

また、ツッパッたり、暴走族に関わって不良行為を行ったり、夜「群れて」公園などを徘徊するという行為は、人間関係の作り方を間違えている結果だと考えられます。前者と後者ではもちろん対応の仕方が違いますが、共に「人間関係づくり」につまずいた結果とも考えられます。

本校では、色々な機会をとらえて自分に対して自信をつけさせて、人間関係づくりの援助をしているのです。また、やくざ的人間関係や、ツッパリをかっこいいと考えている生徒、暴力支配的集団を作る生徒たち、即ち非民主的人間関係に染まっている生徒は、新入生の中に多くいます。私たちは、彼らは間違った人間関係に染まっているのだと考えています。本校では彼らに、正しい民主的人間関係とは何かを、クラス指導を通じて実際の行動の中で会得するよう指導しているのです。

私たちは今日、日本の学校教育の中で、「子供達は、集団の中で成長する。」という視点が少なくなってきているように思います。その点でいろいろな問題がありますが、その一つに、不登校生や中退生が、大量に通信制高校に在籍しているという問題です。

本校が20年前に、積極的に不登校生や中退生を受け入れ始めた頃は、「高校にも行かず、さりとて働きもせず、どこにも所属しないで、ただぶらぶらしている10代後半の若者が、20万人以上に達している。」ということが社会問題化していました。その頃から通信制の生徒が急増してきたのです。

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通信制教育の現状

通信制という学校制度は、高校でも大学でも、もともとは、主に定時制や夜間にも行けないで働いている人達が、働きながら免許や単位を取得するための学校制度でした。従って、前述したような、学校としての「生活指導的分野」は、必ずしも必要としません。「教科指導的分野」が中心となるのです。その意味で通信制の学校は、本来的に「集団の中で子供達を指導する」という教育が、難しいという構造になっています。

多くの通信制の高校では、その問題を補うために、通信制高校とは別に「サポート校」という「学習塾」的な所に入学させ、日常的にはそこに通わせて、レポートを書く等の指導をしているのです。更に、父母の中には、そのサポート校を正規の高校と勘違いしている場合もあります。また、通信制高校には狭域通信制と、広域通信制があります。特に広域通信制がこの20年ぐらいの間に1校数千人の生徒を抱え、不登校生や中退生の受け皿になってきたのが現実です。

通信制の学校は、一人で学習し、スクーリングやレポートによって単位を取得する制度です。従って、人間関係の煩わしさから解放されると思い、またその手軽さから通信制に行く生徒が多くなっているのです。しかも、保護者も自宅から「通える」と考えて安易に入学させているのが現状です。 しかし、全国で18万人の広域通信制高校在学生中、7万人もの生徒が1年間に1単位も取れずに、ただ在籍しているだけというのが現実です。

さらに重要な事は、たとえ卒業出来て大学に入学したとしても、「社会性が低いため在学中は孤立し、就職活動や社会人生活につまずくタイプの若者(準ひきこもり)」(朝日新聞7月2日樋口康彦氏)が多くなってきていて社会問題化してきているのです。その様な問題は、むしろ高校教育の段階で「教育」されていなければならない問題だと考えます。

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いま学校教育に必要なもの

それはもちろん、通信制の卒業生に限ったことではありませんが、今の日本の学校教育の中の一つの分野として、私達は「社会性を身につける」ということを重視する必要があると考えています。社会性を身につけるという事は、集団の中で良好な人間関係を築くことが出来るということです。それは高校生活で、集団の中で正しい人間関係を作ることができ、その経験から子供達は社会の中で「生きる力」を育んでいくと考えます。本校は、まさに開校以来その事の重要性を認識し教育を行ってきたのです。

学校教育には大きく分けて、教科指導と生活指導の分野に分かれており、ともに重要であると考えてきました。その「生活指導の分野」の中に、「クラス集団づくり」を位置づけて来ました。

これからもその事を中心にしてさらに豊かな教育を目指したいと考えています。

今日本の教育の中で、一番欠けているのは、子供達が集団の中で成長するものだ、という視点です。不登校生や「準ひきこもり」の子供達に対して行われている対応は、カウンセラー等による個別対応が中心になっています。それでは一種、対症療法的対応でしかありません。その対応の必要性を否定するわけではありませんが、いま全国的に必要なのは学校の中で、教師たちが子供達を集団の中で育てるという視点を常に持っていることではないかと考えます。地域での子供たちの遊びの場や活動の場が少なくなってきている現在、ますますその事の必要性が問われていると考えます。

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新入生にとっての1年研修会と強歩遠足とは

本校でのこの1年間の学校生活によって、生徒は大きく成長していきます。それは目つきの変化にはっきりと現れます。3年生も、入学したての頃には、教師不信の鋭い目つきが多いのです。しかし、2年間で大きく成長し最上級生としての自覚はもちろん、残りの学校生活をいかに楽しく意味あるものにしようという意欲が感じられるようになります。

2年生も入学時を振り返れば、落ち着かない生徒が目につき、担任の先生方がいつも飛び回ることが多いのです。しかし、少しずつ落ち着いた学校生活を送る様になります。

また入ってきたばかりの1年生は、今までの生活の延長で生活するため、基本的な規律ある生活にすぐには適応できません。しかし、1年研修会、強歩遠足、弁論大会、夏期スポーツ大会と1つ1つの行事を経験する中で、着実に生徒は成長していきます。

それは、学校生活の中だけでなく、寮や下宿での異学年との交流の中でも育まれるものです。

毎年、1年研修会は大いに盛り上がります。集団ゲームに熱中する中で、今まで知らなかった生徒同士の会話が生まれてくるのです。それは本校での正しい人間関係を創り上げていく第一歩になります。神威岬への遠足も、それも良い思い出になったことでしょう。この1年研修会は、すべて生徒会執行部の企画に基づいて行われます。生徒会執行部は、何日も前からその準備に力を注ぐのです。彼等も2年前の何も知らない不安な自分と、その時の生徒会の先輩の姿を重ね合わせながら、1年生の身になって頑張るのです。そういう活動は、彼らにとっても素晴らしい成長の営みとなるのです。

そして次は強歩遠足です。これも運営主体は生徒会です。各クラスは、ダンボールでごみ箱を作り、クラスの団結を表すために旗やのぼりを作ります。これは1年生にとって、最初のクラス活動になります。生徒は最低30km歩きます。意欲のある生徒は50kmに挑戦できます。また70kmは、50km完歩者でないと挑戦出来ません。生徒は30km歩けば十分なのですが、なぜか毎年それに満足せず、さらに苦しい50km70kmに挑戦するのです。それは完歩した時の達成感が、次の新たな意欲を引き出すのでしょう。

そしてその苦しみを乗り越えて達成感を味わうことが、子供たの自信につながるのです。本校に来る生徒たちは、自分に対する自信がありません。子どもたちはすべて、素晴らしい可能性を秘めているのです。自分に対する自信を持つ事が、色々なことに挑戦する意欲につながるのです。その意味で本校にとって、強歩遠足は重要な意味をもった行事なのです。

 


「北星余市」に於ける弁論大会の意味

「北星余市」の弁論は、高文連後志大会を兼ねています。従って、ここでの優勝者が全道大会に出場します。本校の弁論の特徴は、自分が「北星余市」に来るまでの経緯と、来てから自分がどれだけ変わったのかという、具体的実体験を語ることが多いのです。それは、自分の家族関係をも含む自分の今までの人生の、1つの総括にもなることなのです。

弁士は、弁論を仕上げる過程で、自分の成長を認識し、自分の家族関係を見直し、新たな課題を見つけることができるのです。聴衆は弁士の体験を、自分の体験と照らし合わせながら共感し、考える事が出来るのです。

ですから「北星余市」の弁論は、単に自分の意見発表の場、というだけでなく、弁士と聴衆が、自分の人生を考える上での重要な契機になるのです。

また、多くの聴衆の前で自分をさらけ出すという事は大きな勇気のいることであり、自分に対する自信と、聴衆との信頼関係がなければなりません。その事の確認の場にもなっています。

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学園祭と生徒会執行部

本校では、2学期に入ってすぐ、生徒会執行部は学園祭の準備に入ります。その姿を見て徐々に、3年生から各クラスの準備が始まっていきます。上級生のそういう姿を見て1年生は、学園祭のイメージをふくらましていくのです。最初はクラス対抗の合唱コンクールの練習です。放課後少しずつ教室棟から歌声が聞こえてくるようになります。その歌声が大きくはっきり聞こえる様になった頃、クラス企画の準備が始まります。

合唱の当日は、明らかに3年生は、声の大きさで下級生を圧倒します。練習量もやる気も違いますが、自分達に対する自信の違いが大きいと思います。3年生は、大きな口をあけ胸を張って、堂々と歌います。1年生は、自信無げにうつむいています。見ていてそのことがはっきりとわかるのです。

またクラス企画は、そのクラスの団結力とやる気に大きく左右されます。従ってその出来栄えも歴然としています。

本校の学園祭は、この様に生徒の成長を具体的に見ることができる行事でもあり、また生徒会の活動の集大成でもあります。またその事は、生徒たちにもはっきりとわかるのです。ですから1年生は、3年生の「すごさ」に感心し、2年生は来年こそは、と思うのです。

行事を、生徒会執行部が主催するという事は、本校の行事のあらゆる部分の前面に立って、楽しく頑張っている姿を、下級生は目の当たりにするわけです。それに多くの生徒があこがれ尊敬するのです。そのためには、執行部の生徒の生活がきちんとしたものでなければならず、それに応えられる者でなければならないのです。また生徒会執行部やクラスのリーダーの生徒たちは、自分の学校の為に、自分のクラスの為に、先頭になって活動する事は大変な事ではあっても、やりがいのある楽しいことでもあり、その中で自分の成長も実感できることなのです。その姿を下級生が見て、自分の目標とする事が出来るのです。

そしてその後、生徒会執行部と3年生は、自分の進路決定にまい進することになります。2年生は修学旅行の準備に入ります。 修学旅行は、生徒の実行委員会を組織し、規律、事前学習、レクリエーションの企画に携わります。修学旅行中は、実行委員会が中心になって規律ある集団行動を、自分たちの手で組織運営する体験を経て、集団のリーダーとして成長するのです。(従って、自然にその実行委員会の活動の中から、次期生徒会執行部の候補たちがあらわれてくるのです。)

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寮下宿と生徒の教育力

本校での教育の重要な部分に、「生徒の教育力」があります。生徒は学校生活の中では、前述したように行事を通じて生徒会執行部の生徒の姿を見ます。その生き生きとした姿は、下級生にとって一つの目標になります。

それと同じ様に、寮・下宿の中での上級生の姿が目標になります。寮や下宿での生活は、学校生活以上に彼らにとって濃厚です。上級生は、自分が入学した時の寂しさや幼さを覚えています。そして、その当時の自分と今の自分の違い、成長の軌跡を知っています。だからこそ下級生の気持ちや問題性がよくわかるのです。ですから下級生にその事を語り励ますのです。

これは、不登校の生徒も出校するようになる重要な契機の一つになっています。朝一斉に下宿の生徒が学校へ行く雰囲気は、自然に不登校生にも学校に足を向かわせる力になっているのです。

また語るだけでなく、教師にしかられて下宿に帰されてもそこで具体的に、その問題性を指摘してくれるのです。彼らの話は、同じ事を教師が言うよりもはるかに大きな説得力を持っています。特に教師不信を持って入学してくる生徒の多い本校にとっては、なおさらです。私たちはそれを、「生徒の教育力」と言っています。その生徒の教育力が、現実に本校の教育を陰で支えているといっても過言ではありません。

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