原点となる場所ほくせいよいち

2017.01.26 研究者

静岡県立大学 国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授

津富 宏

Tsunami Hiroshi

プロフィール

日本の法務官僚、社会学者(犯罪学・刑事政策・評価研究・青少年自立支援)。学位は理学修士(ウィスコンシン大学マディソン校・1988年)。静岡県立大学国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授、特定非営利活動法人青少年就労支援ネットワーク静岡代表、「セカンドチャンス!」代表。
法務省矯正局調査係係長、浪速少年院教育部門統括専門官、矯正研修所教官、国際連合アジア極東犯罪防止研修所教官などを歴任した。(Wikipediaより)

若者就労支援として「静岡方式」と呼ばれる取組みをされている青少年就労支援ネットワーク静岡や、少年院出院者が経験と希望を分かち合い、仲間として共に成長することを目的とした団体であるNPO法人セカンドチャンスの代表なども歴任されている津富先生。5年ほど前からおつきあいさせていただいておりますが、幅広く若者の支援をされている津富先生にとって、北星余市とはどんな場所に映るのか、寄稿していただきました。

 

CONTRIBUTION

北星余市の教育とは?

 

 

 

 自分に「原点となる場所」があるとないでは、人生はずいぶん違うだろう。「中学校には居場所がなかった」というとき、その中学校は自分の原点にはならない。「家には居場所がなかった」というとき、その家は自分の原点にはならない。原点とは動かない場所だ。自分がいつもそこに立ち返ることのできる場所。いつもそこにあると知っていて自分らしさを取り戻すために帰ることのできる場所。

 君は、自分らしく生きたいと思っていないだろうか。それは、今の場所では自分らしく生きられないと感じているからに違いない。

そこでは、自分でない何者になれと言われているのかもしれない。あるいは、自分でない何者にさせられているのかもしれない。それは、「まちの厄介者」だったり、「学校に来られないひきこもり」だったりする。「自分」ではなくて「まちの厄介者」に、「自分」ではなくて「学校に来られないひきこもり」になってしまうのだ。

問題は、いったんそうなると、自分でも自分のことを「まちの厄介者」だったり「学校に来られないひきこもり」のように思い始めてしまうことだ。もちろん、そうなることが楽しいわけじゃない。どっかおかしいのに、そうならざるを得ないのだ。でも、自分という人間は一人なので、「まちの厄介者」なのに「学校の優等生」なんて二つの立場を同時に生きることはできない。だから、納得していないのに、「させられた立場」を生きることになる。同時に二つの服を着るわけにいかないのにも似ている。ひとつの服を着たら、もうひとつの服は着られない。

とはいって、自分が自分になるのは簡単じゃあない。というのは、服は自分の弱みを見せないために着ているからだ。服は、周りから自分の弱いところを守ってくれる。服を着れば、他人に自分の内面じゃなくて外面だけを見せることができる。だから、いくら服を取り替えたところで問題の解決にはならない。

だから、北星余市は服を着替えに来るところではない。そうじゃなくて、どんな服を着るかを悩まなくていいところだ。いや、どんな服を着ようと「あなたはあなた」。服じゃなくて、君自身を見てくれるところだ。だから、北星余市では自分が自分でいていい。何者になれとも言われない、何者にさせられることもない。

人には、一人ひとりの人生があり、その人の人生はその人にとって取替えがきかない、逃れられないものだ。だから苦しい。北星余市に来れば、それぞれの人がさまざまな不幸や悲しみを潜り抜けてここにいることに気付くだろう。多くの人が、自分の弱みも含めて自分であると認めて生きているのに出会うだろう。自分を受け入れるために、人と出会う場所、それが北星余市だ。

ほ・んとうに

く・るしいことがたくさんあっても

せ・かいのどこにも

い・ばしょがないとおもっても

よ・いことなんか

い・っこもないとおもっても

ち・きゅうにはきみがじぶんのままでいられるばしょがある

 

それが北星余市

 

 

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