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大人へと向かう足がかりを作る高校教育。

2017.01.03 研究者

和歌山県精神保健福祉センター 所長

小野 善郎

ONO YOSHIROU

プロフィール

和歌山県精神保健福祉センター所長、和歌山県子ども・女性・障害者相談センター子ども診療室長を兼務。アジア児童青年精神医学会副会長。

『子どもの福祉とメンタルヘルスーー児童福祉領域における子どもの精神保健の取り組み』(編著、明石書店、2006年)

『子どもと青年の攻撃性と反社会的行動』(単訳、明石書店、2008年)

『移行支援としての高校教育ーー思春期の発達支援から見た高校教育改革への提言』(編著、福村出版、2012年)

『続・移行支援としての高校教育 大人への移行に向けた「学び」のプロセス』(編著、福村出版、2016年)

2016年1月に開催された本校主催のインクルーシブ教育を考えるイベントでご講演いただいた小野先生に、精神科医として子どもたちに向き合い、研究もされてきた見地から、日本の高校教育のあるべき姿、それに照らし合わせた際の北星余市の存在を語っていただきます。

 CONTRIBUTION

北星余市の教育とは?

 

 中学校を卒業したら高校に進学するのが当たり前になった現在では、何のために高校に行くのかを考えるまでもなく、ほとんどの子どもたちが高校生活に入ることで、高校教育の意義や役割はかすんで見えにくくなっています。しかし、義務教育ではない高校はあくまでも自ら希望して選抜試験に合格して入学するのが建前なので、本来は明確な進学意欲が必要とされるはずですが、実際には学力に応じて半ば自動的に「志望校」が決まり、高校教育は子どもたちの生活に自然に溶け込んでいるように見えます。

 最近では高校教育の機会はさらに広がり、増加する不登校生徒や高校中退者にも高校教育の門戸は開かれ、とりわけ通信制高校が急速に普及することで、いったんは将来を悲観した生徒や保護者に希望を与えています。さらに、高校卒業資格認定試験の利用者も増加し、高卒の学歴を獲得するための代替ルートは整ってきました。

 このような代替ルートの特徴は、まさに極限まで煮詰めた高校教育のエッセンスで構成されていることで、すべてのムダを省いた効率的な高校教育ともいえます。高校教育の意義や目的が不確かになれば、最低限の学習のみで高卒資格を獲得することは合理的なことかもしれません。同じことがエリート進学校と言われる高校にもあてはまり、大学受験に特化した効率化が進んでいます。たしかに進学校には大学受験という明確な目的があるかもしれませんが、そうなると塾や予備校と同一化し、高校教育固有の目的が見えなくなります。

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 高卒の資格さえ取れればいいのでしょうか。現実的には大学受験や就職における「資格」としての意味は大きいかもしれませんが、どんなに成績が良かったとしても、その知識がそのまま実生活に役立つわけではありません。逆に言えば、高校で学んだことをすべて忘れたとしても、少なくとも日常生活には実質的な困難はありません。その意味で、高校の授業で身に着ける知識はあまり実用性のない教養といえます。教養は無意味ではありませんが、高校には教科科目の履修だけではない、それ以外の重要な意義があることを見逃さないようにしなければなりません。

 高校は中学校に続く学校教育の段階であると同時に、15歳から18歳という思春期の育ちの場でもあります。子どもから大人への過渡期に相当する思春期は、子どもとしての成長・発達の仕上げの時期であるとともに、親から自立して大人に向けて進み始める重要な時期です。ほとんどの子どもが高校に進学する現在では、思春期を高校生活の中で過ごすことが一般的になっているので、必然的に高校教育は思春期の成長・発達とは無関係ではいられません。不安定な思春期真っ只中の生徒を受け止め、子どもから大人に移行の足がかりを作る重要な役割も高校には期待されます。

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 教科科目の履修が高校教育の中核であるとすれば、それ以外の高校での活動(効率的な高校教育でのムダに相当する)はすべて思春期の発達支援と関連します。学力だけでなく、大人として生きていく基礎を築く支援も、現在の高校教育に求められる重要な要素であり、特にさまざまな不利や困難を抱えてドロップアウトのリスクが高い生徒には、ただ単に学力を高めることよりも、大人として生きていくのに役立つ学びの経験をすることはとても重要になります。このような教育的実践を私たちは「移行支援としての高校教育」と呼んでいます。

 思春期は一人ひとりの子どもがその多様性を華々しく開花させる時期でもあります。一人ひとりの個性として得意なことと不得意なことも明らかになり、それを踏まえて社会の中での役割を見つけ出していくことになります。しかし、高校教育があくまでも「学力」という単一の基準(つまりテストの点数や偏差値)で評価されるものであれば、個性は否定され、可能性の芽が摘まれることにもなりかねません。それだけでなく、平均的な幅に収まり切らない個性は「逸脱」として指導の対象となったり、さらには病気や障害のラベルがつけられたりする可能性すらあります。思春期の発達の視点からは、高校教育には多様性を受容する柔軟性がなければ、高校への適応の幅が狭まることでドロップアウトのリスクが高まり、さらなる不利を生み出すことになりかねません。

 したがって、思春期の発達支援をふまえた移行支援としての高校教育は、一人の生徒も排除しない教育でなければなりません。排除しない高校教育とは、要するに生徒の多様性を承認し、個別的ニーズに応じた教育ということになります。それはまさに特別支援教育の理念と通じるものであり、高校教育が多様性に対応していけば、さまざまな障害のある生徒もそこに包含されることになり、まさにインクルージョン教育の実践につながることになります。言い換えれば、多様な生徒を受け入れる高校教育は特別支援教育そのものであり、そこには障害の有無による区別はなくなります。

 大人へと向かう足がかりを作る「移行支援としての高校教育」では何をどのように学べばいいのでしょうか。大人になるための「学び」は必ずしもテストの点数に反映されるものではありません。学力テストでの高得点は大学受験には有利であったとしても、その知識がそのまま大人としての生活に具体的に役立つわけではありません。どんなに学校教育が発展したとしても、生きていくために必要なことをすべて学校の授業で学ぶということにはなりません。大人になるための「学び」は単なる知識や技術というよりも、実際には誰から何を学ぶかというプロセスにその本質があります。

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 北星余市高校のような不登校や高校中退などの困難を経験した生徒を受け入れている高校には、今日の若者たちに求められる移行支援としての高校教育のノウハウがすでに蓄積されています。それらの高校での教育実践に共通するのは、非常に活発な生徒同士および生徒―教員間、そして地域の年長者との交流があることです。大人になることが社会の一員になることだとすれば、そのための成長には他者との交流の場が不可欠であり、一人だけの「独学」や「通信教育」によって学ぶことができるような効率的なものではありません。大人への移行のための「学び」には社会を構成する大人との関係がないところで達成されることはありえません。

 学校や地域での「学び」に加えて、北星余市高校の場合は民間の寮下宿があることで、教員や親以外の大人との貴重なつながりが得られていることが特筆されます。思春期は親と対立すること多くなるので、親以外の大人のかかわりが特に重要になります。親代わりにもなる下宿の管理人さんたちが親との関係の空白を埋めることで生徒の「学び」を下支えする役割を担っています。そこには教室を超えた「学び」の広がりがあります。

 学力や大学進学のような「目に見える」成果で高校教育が評価される昨今の風潮の中で、一見ムダに見える「面倒くさい」教育実践にこそ、思春期を生き抜いて大人に向かう子どもたちを育てる可能性が秘められています。目先の成果だけにとらわれない生涯を見据えた移行支援としての高校教育こそが、今日求められる高校教育の意義と役割であり、その代表的な実践を北星余市高校に見ることができます。

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