「皆んなに応援してもらえて、ありがたかった」
「これまでの経験は全部活かすつもりです」

2021.02.05 卒業生

不屈のにぎりコブシ/42期卒

太田 憲人

OOTA KENTO

プロフィール

1989年5月生まれ 東京都出身
2006年 北星余市高校に入学
2009年 卒業。明治学院大学を経て一般企業に就職
2017年 プロボクサー デビュー
2018年 東日本新人王、フライ級準優勝
2019年 現役引退

プロボクサーとしてリングで熱い戦いを繰り広げ、私たちに勇気と希望を与えてくれた太田憲人くん。彼が網膜剥離という怪我により引退し、トレーナーに転向したのは2019年5月の事でした。
「ボクシングの話をしよう。」
そんなオファーを受けてくれた憲人くんへのインタビューは、同年12月28日の夜、ジムから程近い五反田のレストランで実現しました。

(聞き手:PTA白土隆)

INTERVIEW

卒業生キラ星インタビュー

―現在はトレーナーとしてどんな仕事をしてるの?

「基本的にはジムでミットを持って、プロ選手の練習のサポートをしています。トレーナーも大変なんだなって、やってみて思いますね。」

―自分より明らかにウェイトがある人のパンチも受ける訳だよね。

「そうですね。すごい衝撃だったりする。自分はサウスポーなので、サウスポーとの対戦が決まった選手の実戦練習の相手を頼まれる事もあります。」

―そもそもなぜボクシングを?

「小さい頃から格闘技が好きだったんですよね。」

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わんぱくな少年時代、キックボクシングやK1をみて格闘技に憧れ、極真空手を習っていた憲人くん。一方で、自己主張の強さから学校では先生にけむたがられ、何かトラブルが起きれば真っ先に犯人扱いされるようになった彼の生活は、次第に荒れていったといいます。結局地元の高校は1年で退学することになりました。ただ、心の奥底に「このままでは駄目だ」という一片の想いを持っていた彼は、やがて北星余市高校への編入という道を選択することになったのです。

「北星余市でボクシングをやりたいと思ったんですけど、ボクシング部がなかった。ただ、よく柔道場でみんなでグローブを着けてやってましたね。まぁ喧嘩に近い感じになってましたけど(笑)。妹尾先生もたまに来てくれてたりして。僕の2〜3年後輩には妹尾先生が空手を教えていたらしいです。」

妹尾克利先生は1年生の時の担任でした。謹慎処分を受けた後の憲人くんに、学級委員長をやるように勧めた事があったといいます。問題が起きれば疑われ、失敗をすれば排除されてきた過去を持つ彼が、学級委員長を務めることで失敗を挽回するという経験をしたのです。
この出来事が、その後の彼の人生に大きな影響を与える北星余市での高校生活の起点だったといえるでしょう。

―大学では?

「ボクシング部があったので入ったんですけど、部員が少ないし、弱かったんですよ。本気でやってるとはいえない部でしたね。ただ、その時は大学で他にもやりたい事がいろいろあったんで。」

―1年間休学して海外を周ったこともあったんだよね。高校時代の海外研修がきっかけで、より視野を広げたいっていう思いもあったのかな。

「そうですね。だから、あまりボクシングだけに集中していた訳ではなかったんです。」

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―プロになろうって考えたのは社会人になってからだね?

「最初は運動不足解消が目的でワタナベジムに入ったんです。そこで、トレーナーの井上さんに『プロテスト受けてみないか?』と声をかけていただいたのがきっかけです。合格して、デビューの話も出たんですけど、その時は勤めていた会社の許可がおりなくて実現しませんでした。ただ、諦め切れない想いが残りました。『プロとしてボクシングをやりたい』という自分自身の気持ちをあらためて確認して、会社を辞める決心をしたんです。」

プロとしての第1戦は2017年6月19日、後楽園ホール。北星余市卒業から8年が経過していました。

―デビュー戦のチケットが入った封筒には『北星余市OBとして必ず勝ちます!』と直筆で勝利宣言を書いてくれてたね。結果は最終4ラウンドにダウンを奪って、文句なしの判定勝利。

「北星関係の人たちも応援に来てくれるから、頑張らないといけないっていう気持ちがありました。」

デビュー戦の後、北星余市高校がボクサー太田憲人の広告スポンサーとなり、第2戦からはトランクスに『北星余市』のネームが入りました。廃校の危機にある母校を少しでもPR出来るならと、憲人くんから提案したものだったといいます。

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―北星余市の看板を背負う形になった事で、ボクシングに影響は?

「試合中は相手とどう戦うかに集中するので意識はしてませんでしたけど、普段の練習ではモチベーションになってました。北星余市の名前を付けるからには負けられないって。」

―試合でプレッシャーにはならなかったんだね。

「そうですね。むしろプレッシャーをかけてきたのは、北星の先輩たちでしたね。来てくれるのはいいんですけど、お金を払うかどうかは試合を見てから決めるだとか(笑)。」

―そういえば、第2戦で二佐選手に判定勝ちした後も、先輩から「試合が地味だ」とか言われてたよね(笑)。

「本当、ボロクソでしたね(笑)。でも、なんだかんだ言って応援に来てくれてましたから、感謝してますよ。」

―心の中ではね(笑)。そんな中、3戦目は前年の新人王戦で準優勝の荒川選手に2ラウンドTKO勝利。最後は、左ストレートが見事に決まった。

「サウスポー独特の距離感を活かした戦い方を意識していて、スパーリング相手からも『やりづらい』とよく言われてました。それに加えて左ストレートを武器にしようと練習していましたから、手応えがありました。」

―試合後に荒川くんに声をかけたんだって?

「新人王の決勝でもう1回戦いましょう、ということを言いました。」

誓い合った再戦実現に向けて勝ち星を重ねる憲人くん。新人王戦準決勝では、強打に定評のある具志堅選手に対し、リングのスペースを最大限に使ったアウトボクシングに徹しての判定勝利。リベンジに燃える荒川選手が待つ決勝に駒を進めました。
「母校北星余市存続のため必ず勝つ」
東日本新人王決勝戦発表記者会見で憲人くんが発したその言葉が見出しとなり、マスコミ各社が報道。大きな反響を呼び、特に北星余市につながる人たちの魂を揺さぶりました。
当日、満員となった後楽園ホールには関東圏の同窓生や親たちに加え、北海道から弾丸ツアーで駆けつけた教員やPTAの姿も見られたのです。
運命のゴングが鳴ったのは2018年11月4日14時54分。立ち上がりから憲人くんの動きはいつになく硬く重いように見えました。原因について、本人は多くを語りません。
開始から数10秒後、突然バランスを崩したようにキャンパスに倒れこむ憲人くん。スリップにも見えましたが、細かい攻防の中で相手のワンツーが当たっていたようです。デビュー以来初のダウン。その後も彼本来の軽やかなフットワークが影をひそめたまま苦しい展開が続きました。

―2ラウンドに相手の強烈な右ストレートで2回目のダウンを喫した時は、「もはやこれまで」と思ったよ。何とか立ち上がったけど、膝がぐらついてたし。

「あそこは本当にいいのをもらって、自分でももう駄目だと感じてました。ただ、とにかくファイティングポーズを取ろうと立ち上がったら、行けるだけ行こうっていう気持ちになっていた。他に何かを考える余裕はなかったですね。」

それは奇跡的な反撃でした。凄まじい気迫で距離を詰めて連打。左右のフックが相手の顔面を捉えると、満員の会場がどよめきと歓声に包まれ、大きく揺れたのです。
「憲人!」「ケントー!!」無我夢中で叫ぶ応援席。
ついに第2ラウンドを戦い切ったのを見て「もう充分だ」と思いました。ダメージの大きさは誰の目にも明らか。棄権してほしい。しかし、第3ラウンド開始のゴングと同時に彼はゆらりと立ち上がったのです。

―あの瞬間は心が震えた。本当に死力を尽くそうとしてるんだって。

「足がしびれてましたけど、意識はハッキリしてました。井上さんが『危ないと思ったら、すぐタオルを投げてやる』と言ってくれたのをおぼえてます。」

間もなく、その時は訪れました。荒川選手の左ストレートがさく裂した次の瞬間、セコンドからタオルが投入され、ほぼ同時にレフェリーが試合を止めて、憲人くんのTKO負けが宣告されたのです。足元がふらつく状態で井上トレーナーに支えられながら、四方の観客席に深々と頭を下げる憲人くん。控室では「荒川選手が強かった」と勝者を称えました。
翌日、各スポーツ紙やボクシング専門サイトの記事の主役は当然、新人王を獲得した荒川選手でしたが、対戦相手である太田憲人の反撃シーンもまた驚きを伴って報じられていました。「驚異的な粘り」「母校北星余市存続に賭ける想いが力になっているのか」「勝利への執念を見せた太田」などなど。
勝って存続を訴えるという目的は果たせませんでしたが、その不屈の闘志は違った形で母校をアピールする結果をもたらしたのです。

左目の網膜剥離が判明

熱戦から数日後、憲人くんの左目が網膜剥離と診断されました。以前から自覚症状はあったものの、新人王トーナメント、そしてライバル荒川選手との決勝戦が迫る中、病院へ行くという発想は彼の中になかったようです。
幸い手術が成功し、年明けからジムワークを再開した彼は「必ず復活します。」とコメント。しかし、力強い言葉とは裏腹に、実は目の違和感を払拭しきれず、そのことからなかなか上がらないモチベーションに人知れず悩んでいたようです。日常生活に支障がない程度には回復しましたが、ボクシングは全く別物。そんな中迎えた5月の蒲山選手との復帰戦。本人にとっては本来の動きが出来ず、戦術も消極的なものだったといいます。
それでも最後は何かを吹っ切るように前に出た憲人くん。リードを許していたであろうポイント差を覆すまでには至りませんでしたが、事実上の現役ラストラウンドは、剣で斬り合うような白熱の攻防を見せてくれました。

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―蒲山選手との試合は、はっきり言って勝敗より左目のダメージが気になった。

「ドクターの診断では、剥離の再発や眼底出血の症状はありませんでした。ただ、現役を続行するなら失明のリスクもあると忠告されました。」

―引退は、本当にギリギリのところでの判断だったんだね。現役生活を振り返って思う事は?

「辛口の先輩たちもそうですけど、皆に応援してもらえた事が本当にありがたかったなと、あらためて思います。」

―僕らも応援しながら楽しませてもらったよ。これからの抱負は?

「現役ではなくなりましたけど、ボクシングに関わる仕事は続けたいと思ってます。トレーナーをしながら、実は今大学に通いなおしてるんです。教職を取って、どこかの高校でボクシング部の顧問になるっていう道もあるんじゃないかと考えて。」

―アマチュアボクシングの指導者っていう事だね。

「まだ確定したことではないですが、まずは学校に通ってみようと。通信で、トレーナーとして働きながら出来るので。将来についてそういう考えがある事をジムにも伝えてあります。育てた選手をワタナベジムに送り出すっていう繋がりも出来るかもしれない。高校で本格的にやった選手は、やっぱり強いですから。」

―まず手始めに北星余市でやるっていうのはどう?(笑)。

「それも面白いですね(笑)。どこでやるにしても、これまでの経験を全部活かすつもりです。」

―どんな展開になるのか楽しみだね。今日はありがとう。

その後のキラ星

インタビューの翌年、トレーナーライセンスを取得した憲人くんが、9月8日の後楽園ホールのリングにメインセコンドとして帰って来ました。一度は3月と決定したデビューが新型コロナの影響で急遽中止となり、我慢の半年を経ての初陣です。加藤選手を懸命にサポートし、アドバイスを送りましたが、結果は惜しくも判定負け。
「自分の時以上に緊張し、悔しいです。気持ちを切り替えて、明日からまた頑張ります。」
怪我で引退、そしてコロナ禍による興行中止。立て続けに吹きつける想定外の逆風の中で、彼は前を向き続けています。

 

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