もつれた糸のように

2022.12.15 コラム

日本キリスト教団余市教会牧師・リタ幼稚園園長

西岡知洋

TOMOHIRO NISHIOKA

「これは無理かもしれない……」。2004年春。大学の入学式のことだった。見たことないほどの人であふれかえった広大なキャンパスを前に、私は北海道が、北星余市が恋しくなっていた。同時にこれから待ち受ける大学生活をうまくやっていくことができるのか、大きな不安に駆られた。在学した大学の学生数は、当時約2万人。余市町の人口よりも多い学生が在籍しているという事実にめまいがした。

北星余市で歩んだ3年間は、私の人生において大きな宝物となった。「何度でもやり直せること」、「信じてくれている人がいること」、「一人ひとりが違っているからこそすばらしいこと」、「上っ面ではなく真剣に人と関わること」。書き切れないほどの宝物を得た。それらを手にして、新しい場所でも真剣に人間関係を築いていきたい。そう思っていた。

しかし大学では、こんなにたくさんの人がいるのに、人と人との心の距離は遠く、上っ面な言葉が並び、すれ違って、遠ざかって、自分が透明になったように感じた。同時に、それまでに築いてきた小さな自信すらも失ってしまっていた。気が付くと大学に行くことが少なくなっていった。そんなある日、学部の講義で同じクラスだった同級生から連絡があり、ごはんを食べることになった。そして「最近どうしたん?」と尋ねられた。私は「なんかシンドイんだよね。学校やめようかなぁ」と、つい本音を漏らしてしまった。すると真剣なまなざしで「学校やめたら悲しいで。学校やめんでや」と、そんな言葉が返ってきたのだった。「こんな自分に?」という驚きとともに、その一言に私は助けられた。そして自分が勝手に諦めてしまっていただけで、大学にも自分と本心で関わってくれる存在があることに気が付かされた。私がその後、単位を何度も取りこぼし、4年半かかっても大学を卒業できたのは、その一言があったからだと思う。

月日が流れ、私は牧師となり、不思議なことに余市に帰ってきた。18年前にあれだけ帰りたかった、恋しかったこの場所で生活をしている。余市へ送り出してくれた人、余市に迎え入れてくれた人。いろんな人との出会いや支えの中で自分は生かされている。「恋 / 戀〈こい〉」という漢字の「䜌䜌」とは、「もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと」を意味するそうだ。古くは人に限らず、季節や場所を想う気持ちとして用いられた。切っても切れない大切な場所、余市での日々を丁寧に生きていきたい。

文・写真:西岡知洋

 

プロフィール

西岡知洋 | Tomohiro Nishioka

日本キリスト教団余市教会牧師・リタ幼稚園園長。高知生まれ小樽育ち。2001年北星余市高校に入学。37期生。「恋」と聞いて思い出す曲はMONGOL800さんの『小さな恋のうた』と新沢としひこさんの『恋は』。

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