カーチャへの旅

2019.11.01 コラム

写真家

辻田美穂子

MIHOKO TSUJITA

北海道のちょうど真北に、「樺太」と呼ばれた島がある。現在はサハリンという名でロシアの一部になっているけれど、第二次世界大戦前の40年間は、日本の土地だった場所だ。私の祖母は、その樺太で生まれた。祖母の話してくれる昔話には、耳が凍ってちぎれそうになるくらい寒いところに住んでいる大きな外国の男や「フレップ」という赤や黒の実、「カ ーチャ」と呼ばれる女の子が出てきた。もう少し大きくなった頃、カーチャは祖母の若い頃の呼び名だと知った。祖母は戦後3年間、ソ連に支配されて樺太から「サハリン」となった土地で暮らしを続けた。人手も足りなかったので、母親が勤めていた病院で看護師として働くことになった。医者はロシア人に代わり、患者も同僚もロシア人が増えたので、少しずつロシア語も覚えた。祖母の名前である「けいこ」は、ロシア人にとって発音するのが難しく、頭文字のKをと って「カーチャ」というロシア名で呼ばれることになったそうだ。写真の専門学校へ通っていた21歳の時、ある日先生が言 ったひとことにピンときた。「絵は家にいても描けるけれど、写真は現地に行かないと撮れない。」頭の片隅でおとぎ話のようにぼんやりと存在していた樺太へ、行ってみようと思った。それから毎年、いろんな季節に出かけた。春といえば、植物が一気に芽吹く美しい季節。でもその頃のサハリンは雪解け水で道がぐちゃぐちゃで、「一年で一番美しくない季節」と教えられた。地元の大阪では見たこともない、何十キロも見通せる海沿いの道。そこをジリジリと太陽に照りつけられながら、どこから来たのかもわからない少年がひとりで歩いている。終戦の夏、この果てしない道を祖母も何週間もかけて逃げ歩いたのかと想像した。いつもバスから眺めているだけだ った、遠くの紅葉した山肌。ある年、友人に誘われて足を踏み入れてみると、それは赤や黒のさまざまな種類のベリーで、祖母の言っていた「フレップ」の正体だと知った。東京に住んでいた時に訪れた極寒の2月には、初めてマイナス30度を体験した。マフラーで隠れきらない頬がちぎれてしまいそうで、「凍てつく」とはこのことかと思った。一度だけ、祖母と一緒にサハリンへ行ったことがある。今から9年前、私にとっては初めてのサハリン、祖母にとっては62年ぶりに帰る樺太だった。なにもない草原や、廃墟になった建物を見るたびに、祖母はとても嬉しそうな顔をした。そこは祖母の家や学校、勤めた病院があった場所だった。「ここが正面玄関で、あっちが診療所で」と指差しながら教えてくれた祖母には、当時の樺太のまちが見えていたのだと思う。写真を撮り続けていると、わたしもその光景をいつか見られるんじゃないか。そんな気持ちで1年に1回、カーチャの暮らしていた土地へ旅をしている。祖母の話はおとぎ話なんかではなく、確かに、そこにあった。

文・写真:辻田美穂子

 

プロフィール

辻田美穂子 | MIHOKO TSUJITA

大阪出身の写真家。祖母の出身地である「樺太(サハリン)」の写真を撮るために北海道に移住。2019年度より、毎週総合講座で写真の授業をしている。少しずつ北星余市に友達ができてきて、嬉しい。

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