良いものを拾おう、普段の様子 2018.5.16

卒業生・西岡牧師のお話です。

在学当時の思いなど、貴重なお話をしてくれました。

みなさん、こんにちは!1週間も半分終わりましたね〜。
にしても、今日の余市町は暑い、暑い、、この時期には珍しく26℃もあるんです!と思って本州の天気予報を調べたら、本州も同じくらいなのですね。みなさん、暑さに負けないように!
そして、私事ですが、昨日バスケット部に混じってバスケをしたら、久しぶりに汗を流して気分爽快でした☆絶対、今日筋肉痛になるなぁ〜と思ったら「あれっ、筋肉痛にならない!意外と大丈夫じゃん!」と嬉しがっていましたが、、歳をとると2日後に筋肉痛になるっていいますよね。もしかしたら、それなのかも。。明日が怖い。。と、怯えています。(笑)

さてさて、本校はキリスト教なので毎週月曜日に全校礼拝が行われます。
数ヶ月に1回札幌や余市にある教会から牧師さんを招いてお話をしてもらっているのですが、今週の月曜日は余市教会の牧師さんに来てもらいました。
この4月から新しい牧師さんに変わったのですが、なんとこの方卒業生なのです!ちなみにわたくし國久は40期生で、この西岡牧師は37期生なので丁度入れ違いだったようです。でも、こうして今2人とも北星余市に関わっていること、不思議ですね。本当に人生何が起こるか分かりませんね。
今日は西岡牧師のお話をご紹介したいと思います。文章を載せることを快諾してくれた、西岡牧師ありがとうございます。


朝のホームルームが終わり、みんな体育館に移動します。
讃美歌を歌い、その後西岡牧師のお話が始まりました。
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こちらが西岡牧師です。
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僕の高校生活、本当の意味で自分らしく心から過ごすことが出来たのは、多分最後の半年くらいだったと感じています。もちろん入学してからの3年生になるまでの間、楽しくなかったわけじゃない。いい仲間に出会えて、純生のクラスの一員として生活はしていた。でも、ずっと自分の思いを心の底から仲間に伝えたりはできていなかった。自信がなかったのだと思う。「こんな自分を認めてくれるのかな?」って。だから、学校では知らずしらずのうちに作っていたように思います。

この春余市に引っ越してきて、片付けていたら当時の生徒会誌の『新緑』がでてきました。でも、そこを見ても僕の痕跡はほぼないんですよね。何かコメント書いていたり、写真に写ってたり、そんなことはないんですよね。「俺、なにしてたんだろう。」って思いました。僕の高校生活3年間は薬物との戦いの3年間でした。今も貼ってあると思うけれど、薬物追放を願っての手形がありますよね。先輩たちも同級生も真剣に取り組んでいた。でも、そこに僕の手形も名前もない。どうでも良かったわけじゃないんだけど、なんか踏み出せない、殻を破りきれてない。その輪の中に飛び込みたいけど、素直になりきれない、情けない自分がいたんです。

でも、そんな自分も最後にちょっとだけかもしれないけど、変わることができたのだと思います。安心してみんなに、仲間に自分をあずけて、一歩踏み出せた。それが最後の半年間。
クラスの卒業文集を見ていたら、先生方にコメントを書いてもらってるページがありました。僕は3年E組だったんですけど、先生たちに「3Eはどんなクラスでしたか。嬉しかったことは何ですか。懺悔したいことは何ですか。一言で3Eを表すなら何ですか」とかたくさん書いてもらってるんですね。懐かしくて読んでいたら今堀のページの「3Eに懺悔することはありますか」の欄に『「西岡くんへ。最近調子乗ってんじゃないの?」と調子に乗って言ってしまったことゴメンなさい』と書いてありました。多分、1月末の忙しい時にウザい絡み方をしたんだと思います。調子に乗っていてこちらこそスミマセンでした。でも、調子に乗れるくらい自分で言うのも何だけど生き生きしたんだと思います。ほんの一瞬のかすかな輝きだったかもしれないけど見てくれてたんだなと思います。

学祭で一生懸命取り組んで、3年の中頃になって進路意識しだして一緒に自主的に勉強して、一方で大事な友人が学校を急に去っていった。その別れを愕然として、後悔と無力さをみんなで味わって。そうやって、自分が背伸びせず、偽らないで素直に伝えて、学校にいることに少し自信をもつことができるようになった結果の一歩だった。

聖書の話を少しだけして終わります。読んでもらった聖書の箇所はイエス・キリストの弟子たちが選ばれたというところでした。12人の名前が書いてあるだけのまったく面白みもない箇所です。書いてある人の名前を見ると、聞いたことのある名前もあるかもしれません。ペトロとか。ヨハネとか。イスカリオテのユダとか。でも「何だこいつ。こんな奴いたもの。」という人の名前もあります。で、よく分からない弟子は本当に何者かわかりません。「何をした」って書いてないんですよね、聖書には。そんな人が結構いるのが十二弟子なんです。すごいことをしたから名前があるんじゃないんですね。もちろん、活躍したり裏切ったり。いろいろあって名前が載っている人もいますが、そうじゃない人もいる。これは、すごいことだと思います。イエスはきっと文字には残らないような、その人の輝き、そこにいてその人らしく生きた事実をしっかりと見つめてくれたんだと思うんです。この暖かさが「何者か分からないけど、でも名前が残っている弟子」の存在から伝わるような気がします。

北星余市の先生や、仲間たち、寮や下宿のおじさんおばさんたちは、一人ひとりが持っている輝きをしっかりと見てくれています。見逃したりはしません。活躍をしても、たとえあまり目立たなくても「あなたがこの場所であなたらしく輝いていた」その事実をしっかりと見てくれています。それが、北星余市の素敵なところだと思います。それぞれに、残された北星での時間は違うと思いますが、皆にはみんなにしかできない輝き方があると思います。それは、長いとか短いとか、たくさんとかちょっととかそんな安っぽい価値観では計れないものです。だから、この場所で自分らしく輝けたと思える時が来るように毎日を大切に過ごして下さい。皆の北星余市での生活を心から応援しています。


「どうでも良かったわけじゃないんだけど、なんか踏み出せない、殻を破りきれてない。その輪の中に飛び込みたいけど、素直になりきれない、情けない自分がいたんです。」

きっと、今の生徒の中にも居ますよね。生徒だけじゃない。これを読んでくれている人たちの中にも、もしかしたら当時の西岡牧師のように感じている人がいるかもしれません。
何かキッカケがあったのかどうか、ちょっと気になるところですが。。
例えば、もしかしたら、それは些細な小さなことがキッカケだったのかもしれません。自分では何かわからない「それ」がとても大きく見えていて、何か踏み出せなかったのかもしれません。でも、少しづつ、見えづらいけれども確実になんかしらの一歩を踏み出したり、誰かに助けてもらったりしたことで、変わったのかもしれませんね。
みなさんの中にもそんなことはありませんか?
「ここで一歩踏み出したら良いのかも。でも、なんか怖いし恥ずかしいし。。」と思っていたりしませんか?やったことがないこと、経験したことがないことは誰でも想像がつかないので怖かったり不安ですよね。私も小心者なので、今でも臆病だったりします(笑)でも、きっとそこで踏み出すかどうかで変わってくるんですよね。
やらないで後悔するより、やってみて後悔した方が個人的にはいい気がしたりします。

「イエスはきっと文字には残らないような、その人の輝き、そこにいてその人らしく生きた事実をしっかりと見つめてくれたんだと思うんです。北星余市の先生や、仲間たち、寮や下宿のおじさんおばさんたちは、一人ひとりが持っている輝きをしっかりと見てくれています。見逃したりはしません。活躍をしても、たとえあまり目立たなくても「あなたがこの場所であなたらしく輝いていた」その事実をしっかりと見てくれています。それが、北星余市の素敵なところだと思います。それぞれに、残された北星での時間は違うと思いますが、皆にはみんなにしかできない輝き方があると思います。それは、長いとか短いとか、たくさんとかちょっととかそんな安っぽい価値観では計れないものです。だから、この場所で自分らしく輝けたと思える時が来るように毎日を大切に過ごして下さい。」

本当にそうですね。それぞれにはそれぞれの輝き方があります。どれが正しくて、どれが間違っているということはないと思います。ここ北星余市で自分なりの輝き方、発揮の仕方、それを知ることが出来た時、またそこから見えてくるものがあるのではないでしょうか。

西岡牧師、貴重なお話ありがとうございました。
余市教会に行ったら西岡牧師に会えるかも?!生徒のみなさん、時間がある時に是非行ってみてねー。当時の貴重なお話がまた聞けるかもしれませんよ。

さーて、明日から1年生は1泊2日の研修会に行きますよー。
初めての大きなイベントですね!
でも、お天気が心配。。みんな、明日気をつけて行ってきてね〜。



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