理念や指導方針

教員はいま

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<文:教頭・田中亨>

ふとノートを見返していたら、気になるメモを見つけました。「非行」を考える全国交流集会でのメモです。「非行」を考える、、、っていうか、人ってものを考えさせてもらえます。毎度のことながら。

今日は「なんとかしようとすればするほど、自分の首を絞めてしまう」というお話。

この集会では、子どもが「非行」をしていて、悩んでいる真っ最中の親御さんたちだけでなく、その悩みがある一定解消されて、悩まれている親御さんたちを当事者の立場から支えようとされている方たちも多く参加されているんですね。

そんな先輩ともいえる方たちがこんな発言をされていたんですよ。

子どもがやりたくないと思っていることを続けさせてしまっていた。
自分が学歴主義に捕らわれてしまっていた。その路線に子どもを乗せようとしてしまっていた。
「この人はこういう人だ」「あの人はこういう人だ」と自分の生きてきた価値観で人を決めつけて見てしまっていた。「あなたはこう生きねばならない」と子どもに自分の価値観を押し付けてしまっていた。今となってはその価値観はとても狭いものだったと思う。
子どもは子ども、私は私。でも、家族だから見捨てない。そう思えるようになってから、子どもとの関係性が変わっていった気がする。

そして、その話を聞いていた、山梨県笛吹市で不登校の親の会「ぶどうの会」をされている鈴木さんがこんな感想を話されたんです。

「なんとかできないか、なんとかする方法はないか…と足掻いているうちは良い方向にいかず、子どもは子ども…私は私…と親自身が変わると、意外となんとかなることが多いのは不登校も一緒。ああ、やっぱり共通しているんだなぁ、、、って思いました」

これって価値観の違いからくる話なんだろうなと思うんです。親と子の。というか、人と人の。

自分では何もできず、判断基準もなくて、与えられたものを享受しながら、感じ、考え、成長していくのが人の育ちのはじまりですよね。そうして生きていけば、自分の感性や価値観が育って考えるようになる。そうすると自分の意見を持つようになる。おかしいものをおかしいと思うようになる。自分が正しいと考えるものができる。実際に正しいかどうかは別として。

これって、子供に限らず、大人もそうですよね。誰もが新人の頃は上司の指示を受けたり、先輩のアドバイスを受けて、不安も抱えつつ、考えながら、一つ一つをこなしながら前に進んでいく。一つクリアするごとに、感じるものがあるし、考えることが出てくる。一生懸命そこに向き合えば向き合うほど、気がつけば「自分」を持つようになってる。それに似ている気がします。っていうか、人の育ちってそういうもんなんだろうと思います。

そう考えた時「親だから子どもにいうことをきかそう」っていう、つまり無条件に「従わせようとすること」は、自ら感じ、考え、行動する人間に対しては、不可能なことなんだと思います。自分が感じて、考えて、納得が得られないと行動はしないし、行動を止めないでしょう。

一概には言えない色々な理由で、このような状態になってしまったら、それはもう相手の価値観を尊重する以外はないのかもしれません。「じゃぁ、やってみなよ」っていう。

ただ、何もしないで「やってみなよ」じゃない。一方で「僕はこう思うけどね・・・」という姿勢も保つ必要があって、これがあるから、失敗しても気づきがあるというか。はじめての道、目的地までたどり着くのに、自分が決めた道を進んだけどそこが行き止まりだったとき、「そういえば、あの交差点にたったとき、「こっちだと思うよ」と言ってくれた人がいたっけ・・・」という出来事があったかなかったかは、大きな違いになると思うんですよね。

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